第27話 ワークショップって何だろう? その4
ワークショップの効用を考えてきました。
別に万能のやりかただと言いたいのではありません。
ワークショップが適した場面ではワークショップというやりかたをうまく使えばよい。
そう考えています。
ところで、「名ばかりワークショップ」に遭遇することが時々あります。
例えばこんな感じです。
学校形式で机が並んだ部屋の中。
何人かの人が順番に前に出て発表。
発表後に短時間の質疑応答。
ちなみに、その質疑応答はたいがい時間不足。
質疑時間すらない確保されない場合も。
時間がちゃんと確保されていても、会場から発言皆無の場合もあり。
発言の優先度は役職で何となく決まる。
質問と言いながら、問いでなく持論の演説にすり替わったりする。
このような会議を否定するつもりはありません。
どのような会議にも、目的と経緯に応じた「型」があるはずです。
ただ、ハンズオンの要素がゼロの集い。
あるいは、そもそも参加者で共に創り上げる場にしようとする工夫のない会議。
そういうものならワークショップと呼ぶのはやめませんか?
「合同報告会」とか名付ければよいでしょう。
※個人の感想です。
なぜ僕がここまで強く言うのでしょうか?
それは、このように工夫なき「名ばかりワークショップ」は、ワークショップという「型」を軽く扱っていると感じるからです。
講演会とかシンポジウムとかセミナーとか。
集まって議論する会合には色々な種類があります。
そうしたもののなかで、格が低いものとしてワークショップを見ている印象です。
「こんどの会合の名称を決めなければ。どうしよう?」
「とりあえず、○○ワークショップとでもしておけばいいんじゃない?」
このように浅い名称決めに見えてしまうのです。
もちろん、このような見方は僕のバイアスが強く入ったものです。
毒を吐き出したところで、話題を変えましょう。
「ワークショップって何だろう」シリーズ(?)の下書きをしたのは実はかなり前。
それから長らく放置してしまっていました。
そして、放置している間に僕は、ある本と出会いました。
『プレイフル・ラーニング』と題する本です。
この本によって、上田信之さんという人が1980年代から「ぶっ飛んだ」仕掛けを色々と展開してきたことを初めて知りました。
シリーズ初回の「その1」で述べたとおり、僕にとって「ワークショップ」は、初めて聞いたときから、研修や会合の形態を意味していました。
それが当たり前でした。
しかし、これを当たり前にしたのが上田さんなど先達の実践ということを学びました。
元々、工房や作業場を意味するワークショップという言葉。
それがアメリカなど外国において積極的に学びの場に取り入れられていました。
本場でこの方法論を自身の内部に仕込んだ上田さんのような人が日本でも概念と方法を広めたのでしょう。
僕の世代にとって、テレビは当たり前のものでした。
なんたって、生まれたときから普及していたのですから。
でも、僕の親の世代にとってテレビは当たり前でなく、ある頃にわかに登場したものでした。
テレビが当たり前の存在になるまでには、技術を開発し、商品として作り、売り買いして広めた人たちがいたのです。
ワークショップも同じことなのでした。
上田さんが様々な実践を経て到達した「プレイフル・ラーニング」という概念の深さと展開の可能性。
それに強い衝撃を受けました。
ワークショップとはかくあるべき、などという凝り固まった考えは不要です。
100個のワークショップがあれば、100通りの形があってよい。
設計・運営する側がいかに工夫するかが大切です。
楽しくアウトプットを生み出す「場」さえ提供すれば、あとは参加者が勝手に動き出す。
設計しすぎないなかに深い設計があるのです。
会議や授業や研修などの企画への知恵出しを時に求められることがあります。
工夫しようという意思のある主催者とは、こちらも一緒になって真剣に知恵出ししようという気になります。
その過程は楽しく、ワークショップ本番よりむしろ設計段階のほうが多くの学びをもたらすことも往々にしてあります。
名ばかりでない、工夫に満ちたワークショップをこれからも体験したいし、可能なら作り出していきたいと思います。
そう僕に思わせる魅力がワークショップにはあります。
もっともっと実践を積んでから、題名にある問いへの答えをはっきり見つけようと思います。
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